学校の歴史①

新発田藩の米蔵

今の校舎やグラウンドのある土地にはこのような米蔵が48棟も並んでいました。この蔵は明治4年まで米の貯蔵庫として使われていました。

米の番所

蔵に出入りする品物を調べたり、帳面をつけたり、いろいろな蔵の仕事をする事務所です。

おくら堀

日の出町からおくら堀を通して、向こうに見える松のしげみのある場所が今の学校の敷地です。

米蔵の取り壊し作業

明治17年には米蔵の必要がなくなり、48棟の米蔵はすべて取り壊されて平地になりました。

高砂稲荷神社

米蔵を取り壊した跡地を近所の人たちが耕して畑に使っていました。中心の建物が学校の前の高砂稲荷神社です。

明治25年ころの沼垂小学校

海蔵寺(今の市役所東地区事務所のある所)跡に建てられた昔の学校です。明治6年1月23日海蔵寺を校舎に開学。明治9年に改築。明治17年に増築されました。

新校舎と設立功労者

明治37年5月10日、海蔵寺跡の学校から今の場所にできた新しい校舎に移転し開校式を行いました。

この写真は、新しくできた校舎正面と学校建築に尽力された方々です。前列左から2番目が第6代校長五十嵐巳之松先生です。

大正10年ころの中庭

鈴木令吉先生のお別れ式後、全職員が中庭で記念写真を撮りました。写真に写っている松の木は今もあります。池はまだできていません。

当時の児童数は2656名、44学級、先生の数は50人です。

同窓会(大正11年)

鈴木令吉先生の教え子たちの同窓会です。正面玄関から入って、まっすぐ中庭へ出たところに並んでいます。